テアトル・ド・アナール『ヌード・マウス』
奇妙な利害の一致、それを家族と呼ぶのか
思えば、科学をテーマとして取り上げた作品にいつも胸を躍らされてきた。
例えば、伊藤計劃『ハーモニー』。極度に発展した医療社会の究極の目的を見せた最後に震撼した。例えば、平田オリザ『バルカン動物園』。科学者たちの対話から芸術の未来までを考えさせられた。
その『バルカン動物園』では、“心は何か”を科学的に解かれる日が来るのではないかということを示唆する。その舞台のポストパフォーマンストークで、私は平田オリザさんにこう問いかけた。「心がわかってしまった後の芸術とか物語ってどうなるんですか?」と。
ある日俊哉はため息をもらした。自分が自分じゃない気がした。
「人間、いつ穴に落っこちるか、ホントわかったもんじゃない」
ある日とつぜん脳に損傷を受けた沙智は、忘れていた。“恐怖”という感情を失った。
「ビリヤードの玉、こいつと一緒だ」
そして沙智は、十数年ぶりに父と再会する。脳科学者の父、母を捨てた父。
「どこに転がるか、わからない。わからないように見えていて、すべて決まっている」
二人は気持ちを壊したまま、迂闊な距離の詰め方をする。
「姉さんの頭の中には、何がどう転がってるんだ?」
二人の間に立つ俊哉は、ハダカネズミの回し車を見つめながら、心と脳と欲望の階段を彷徨っていく──。
(シアターガイドより)
息子(増田俊樹)にマッド・サイエンティストのように扱われる父親(山本亨)。この冒頭のシーンを以て、私の最大の関心事は、「脳の未来≒人間の未来」となった。リニアモーターカーの走る近未来を描くこの作品は、きっと、谷さんの思う脳科学の未来、ひいては物語の未来を見せてくれるものと考えたのだ。
しかしながら。最後の台詞の素っ気なさに、谷さんがその未来についての思考を留保したように感じた。いや、あえて関心を示さなかったというべきだろうか。
情報量の多さは心地よかった*1が、それに対する作者の態度が見えないのは、いささか残念なことだった。
舞台の白眉は、娘(佐藤みゆき)と父親の対話。
脳に損傷を受けた娘は恐怖を感じられずスリルを求め、性欲に溺れる。父親は父であると同時に科学者として興味を持って娘に接していく。お互いにお互いを“面白さ”として捉える、奇妙な利害の一致が見られる。
その“面白い”と思ってしまう気持ちは、物語の作者としても同じところなのではないかと想像する。人の忌避するところを、創作者は見ようとするし、作ろうとしている。その生理を、科学者の研究欲求にだぶらせているように思うのだ。
作者がふと顔を出しているように思える瞬間に、どこか真摯さを感じてしまうからだろう。とても好ましかった。
興味深いことに、これは家族の話であるにも関わらず、家族的な雰囲気がどこか薄い。家族の物語として捉えるには、それぞれ個が個のままで在り続けていたように思うのだ。だから、先述の娘と父親の対話がより効果的なのかもしれない。
ひとつ奇妙に感じられたのは、それぞれがそれぞれに独白しているようにさえ聞こえてしまう、俳優陣の感情の発露だった。いわゆる対話劇であるにも関わらず、てんでに爆発していたりする。
爆発が合致すると、先述のシーンのように成功するのだろうが、危ない綱渡りをしているように思えた。言い方を変えれば、竹竿で剣道をやっているような違和感があり、それが戯曲の言葉を零してしまっているような印象があり、もったいなかった。
さて、平田さんには、あの時、「その頃には、自分はもう死んでしまっているから関係ない」と冗談交じりに回答いただいた。私は「せめてその時まで、物語を楽しみたいと思います」と返したように思う。
幸か不幸か、“その時”はまだまだ先の話。さて、物語はどう生き残るだろうか。その答えを谷さんにも訊いてみたいように思う。
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*1:例えば、ビリヤードで脳の損傷を説明する下りは見事