迷作、爆誕。 ― 柿喰う客『世迷言』

 柿喰う客の本公演である。本公演は、中屋敷法仁のオリジナル戯曲を自信が演出するという一番スタンダードなものだ。
 前作『無差別』は、「戦後日本の思想的転換を題材に人間<テクノロジー>と神<自然>の調和と共存を描く!」として、戦前・戦中の人間と自然(動植物)との差別的な関係性から、原爆により等しく害を受けた“無差別”的状況を圧倒的俳優力で描き出した。作品の根底にあるのは「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という命の問題だ。
 これは、今作『世迷言』にも通底している。

因果の百鬼夜行

 御伽草子竹取物語、今昔物語、宇治拾遺物語など日本の古典作品に着想を得た『世迷言』は、馴染みある様々なキャラクタに溢れている。鬼・姫・翁・媼・猿・帝などなど。
 ここに登場するキャラクタたちがお互いの境界を越える禁忌を犯すした時、(中屋敷の言葉を借りれば)無差別化を強いられる。それによって引き起こされた因果は卵が先とも鶏が先とも知れぬ繰り返しに陥っていく。その因果からはみ出そうとする魂でさえ、結局はその繰り返しの中にあるひとつに過ぎない。
 命が繋がる限り続くこの繰り返しは、“今は昔”であると同時に“昔は今”であることを印象づける。国文学として語り継がれてきた物語は、確かに今の地平に続いているのだ。

 美術・衣装・照明・音響により俳優が立ち上がり、スタイリッシュながら幽玄な印象を強める。奇妙でしかしストレートな振付で暗く躍動する俳優たちに魅入られる時間は、一筋縄ではいかない“昔話”を現実のものとして立ち上げる力があった。
 特に「天」(葉丸あすか)という役に与えられた「語る/騙る」ことに興味を持った。時折月と共に現れる絶対的な存在に心惑わされることだろう。

 フライヤーでも使用された“籠”とそれに囲われる物。
 これは現代に生まれた命と魂の昔話だ。

存在の耐えられない重たさ

 それをやや退屈に見せてしまったのは残念だ。こんなにも長い90分も珍しい。『無差別』でもややそう感じたが、その比ではない。特に中盤以降の遅く重く語る様は、今までの柿喰う客になかったことだ。そして、その重さに意味を見出すことは困難だった。

 原因は二つある。

 一つは、“ありきたり”な展開であったこと。
 古今東西の物語に触れた者であれば、「ここは本筋」「ここは脱線」というのが分かりやすい。また、身の上話を情感たっぷり語るところなど、よくもわるくも古典的な曝露である。昔話という枠を決めた時の真面目さが、あまりよい方向に感じられなかったというのが正直なところだ。

 もう一つは、客演の笹井英介に気持ちよく演技をさせたこと。
 プロデュース公演と違い、劇団公演と打った以上、笹井に柿喰う客らしいリズムを強いることも一つの選択肢だったように思う。しかし、あえてそれはさせず、妖艶たっぷりな笹井の本域をと出させたと同時に、舞台全体にその空気の共有を図った。
 それを新たな挑戦だとすることもできるが、笹井に引っ張られた、もしくは飲まれた結果のように見えてしまった。年代が上の俳優との仕事が少なかった中屋敷の弱さだった、と私はあえて切り捨てたい。


 今年の本公演はこれが最後*1で、次は来年以降ということになる。
 劇団初の本多劇場にこのような迷作をぶつけてきた柿喰う客の蛮勇ぶりが、次の本公演ではどのように進化するのか、
 いや、そんなことはまだどうでもいいことだ。いまは、惑うことに忙しいのだから。

今昔物語集・宇治拾遺物語 (新明解古典シリーズ (7))

今昔物語集・宇治拾遺物語 (新明解古典シリーズ (7))

*今作の原典*そういえば去年は高畑勲の「竹取物語」がありましたね。相違点を探すのもまた面白い。

*1:「こどもとみる演劇プロジェクト」と「女体シェイクスピア」はある